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大量の羊が、大地を覆っていた。

羊達の下では若々しい草花が生い茂っている。

男性が手をのばし、1匹の羊の頭の上にそっと乗せてみる。柔らかくないというよりは固い、といった方が正しい感触。

暖かい風が、草花を優しく揺らす。

視線をずらし、男性は空を見上げる。

青い青い、雲の影すら無い空。

そして、時々上がる羊の鳴き声。

此処にあるのは、それだけ。

強いて付け加えるのならば、この男性。

彼だけが、この世界で異質だった。

光源を持たないのに柔らかな光を落とし続ける空。

不意に、

その空の一部が溶けたチーズのように歪み、膨らむ。

そして、盛り上がったその部分は滴状となって、男性めがけて墜ちて来た。

軽いステップを踏みながら彼はそれから身をかわす。

空の滴は優しく羊達を包み込むと白と青のまだら模様に染め上げながら地面へ、ゆっくりと染み込んでいった。

少し離れた場所で第2、第3の滴がまた別の羊達を白と青のまだらへと染め上げていく。

男性の足元でまだ染め上げられていない羊の親子が、彼を見上げていた。

占め合わせたように、彼と羊の親子は空の滴を避けながら走りだす。

空の滴に染め上げられた羊達はしばらくすると2手に別れて移動し始めた。

1つのグループは青の方が多いグループ。

もう一つは白の方が多いグループ。

突然、親羊が男性と子羊を突き飛ばした。

「?!」

その直後に彼らがさっきまでいた場所――――今は親羊がいる場所に小さな空の滴が墜ちてくる。

親羊を空の滴が包み込む。

「だめだっ!君がいないと…」

とっさに男性は手を伸ばすが、親羊は首を横に振ってそれを拒む。

青より白の方が多い羊が、また一匹できあがった。

「くっ…!」

他の羊の下へと歩きだす親羊と逆の方向へ、男性は子羊を抱えて走りだす。

空の滴が墜ちてくるスピードはドンドン早くなっていくが、走れど、走れど彼の目に映るは草原ばかり。

「よぉ、お二方。出口をお探しかい?」

彼の歩みを止めさせたのはどこか嘲笑を含んでいるような声だった。

男性はとっさに子羊を背中へと庇いながら、声の主へと顔を向ける。

「おや、警戒しているのか?そりゃ、するよな。やってることがやってることだもんなぁ」

男性が顔を向けた先にいたのは―――1匹の真っ黒い狼だった。

石の上に悠々と横たわり、顔と柘榴のように赤い双眸のみを男性たちへと向けている。

「なんだ…?君は…」

「お前達のような子羊、羊をパクリ、モグモグする狼さんだ」

困惑の表情で問いかける男性に、狼はどこか楽しげに返事をする。

「この意味、わかるよな?」

男性は無言で下唇を噛み締める。

不意に子羊が鳴き声を上げると、男性は慌てて空を見上げ、迫り来ていた空の滴から身をかわす。

「現実から目をそらすな」

狼が男性へと呟きかける。

「出口は無い」

そう断言した狼の鋭い牙の間から、真っ赤な舌がちらりと覗く。

「出口は無い」

さっきとは別の空の滴を避けた男性に狼は繰り返す。

出口は無い

狼の言葉が男性の頭の中で繰り返された。

男性は辺りを見回す。

草、羊、空、

出口は?

羊、空、草、空、羊、草、

狼。

「出口は無い」

赤い瞳が三日月をかたどる。

「俺と契約しない限りは、どこにも」

とどめなく降り続ける空の滴が、着実に逃げ場を奪っていく。

男性は奥歯を噛み締める。

そして、

「メエェェ!」

子羊の鳴き声が、太陽の無い世界に響き渡った。

「?!」

「契約はなされた」

瞬時に1人と2匹の周りを黒い霧が包み込む。

「望みを叶えよう」

驚愕する男性を無視して狼は淡々と話を進めていく。

狼が横たわる岩の周辺に生える草が次々と炭のように黒く染まり、蝋の様に熔けて形を崩し、地面を覆う。

無論、男性の足元もすぐに黒い海と化した。

男性は反射的に身を引こうとするが――――動けない。

その場を離れるどころか男性の足は遅くないペースで黒い海の中へと沈んでいく。

「クッ…」

「安心しろ、お望みの出口だ」

狼の輪郭が少しずつ崩れていく。

子羊が不安げに男性を見上げると同時に男性は狼を睨みつける。

「何を怒っているんだ?俺は何もしてい無いぞ?」

毛並みは逆立ち、意志を持っているかのように揺らめき始める。

「何の策も無く此処に来たのも」

やがて、それは一つの炎となった。

「決断できなかったのも」

漆黒の炎。

「お前だ」

降り注ぐ空の滴は黒い霧に触れた瞬間に、焼けた鉄に触れたように蒸発していく。

「神の振り分けなど我が契約者には掠りもさせぬ」

クククッと楽しげに岩の上に浮かぶ炎は嗤う。

「大事にしろよ?お前を救ってくれた大事な俺の、依り代だ」

深紅の口が漆黒の炎の上に開き、けたたましい笑い声を上げた。

「13年後だ!」

黒い海は既に一人と一匹を首の少し下までのみこんでいた。

「それまでに愚かな頭を振り絞り、泣いて懇願する台詞を考えておくがいい!」

黒い炎があげる哄笑と共に男性の意識は遠のいていった。



    ===================



「うっ…ぐっ…」

鉛のように重い身体を無理やり男性は起き上がらせる。

薄暗い部屋の床に描かれた魔方陣。

男性が長年による独学で完成させた、この世とあの世の狭間―――仏教で云う煉獄へ向かうためのものだ。

男性はすぐさま病院へ―――妻と子のもとへと走る。

突然のバスの衝突事故、妻と子供の瀕死状態、劣悪な病院の治療環境、遥か以前からあった『神』と名乗るものへの反感…

様々なものが、彼を魔方陣への起動に押し進めた。

慌てた看護婦が彼へと駆け寄り、男性が予想していた通りの2人の状況を説明する。

妻は死に、子は生き延びたと。



しばらくして、男性に赤子を抱く機会が訪れた。

赤子が目を開けぬまま、何かを求めるように宙へと手を伸ばし、男性がその手を優しく握る。が、その顔色は冴えることが無い。

小さな手の平の上に、それは存在した。

666、紛うこと無き獣の数字。

辺境の小さな病院で布石は打たれた。

時は西暦1986年。

あと、13年。



愚かな陣に罪は咲き 黒き炎が空を食む



"Sheep And Devil" is end.

And…?



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